夏目漱石の作品
夏目漱石の作品、みなさんはお読みになっていますか? 私はだいぶ前ですが、高校生の時に読みました。 冬休みや夏休みの宿題で、読書感想文があり、そのために夏目漱石の本を何冊か読んだ記憶があります。 また、そのころは他にも芥川龍之介の作品も読みました。
では、夏目漱石の代表作についてお話しましょう。 「こころ」はお読みになった方も多いでしょうね。 この作品のあらすじはこんな感じです。
大学卒業後、実家に帰った主人公のもとに、手紙が届きました。 それはお世話になった先生からの遺書でした。 遺書の内容は、先生が学生だったころ、下宿していた先のことが書かれていました。 当時、下宿していた先には、ご主人を亡くした美しい未亡人と、また美しい娘さんがいました。 そして、先生は下宿先に困っていた親友であるKを自分の下宿に同居させました。 その後、Kは、その下宿先の娘さんに恋をしていることを先生に打ち明けます。 ですが、先生もずっとその娘さんが好きだったのです。 Kの気持ちに焦った先生は、Kを出し抜き、未亡人の奥さんに娘さんとの結婚を許してもらうよう申し出をしました。 それが許されお嬢さんと結婚することになった先生ですが、Kの方はショックで自殺してしまいます。 先生は晴れて娘さんと結婚した後も、ずっとそのことで悩み続けます。 Kへの謝罪の気持ち、自分への罰、そして、恥を感じながら生きるようになりました。 結果、深い孤独感にさいなまれ、Kの気持ちを深く理解するようになり、自分も自殺をしてしまいます。 その先生の辛い様子、いきさつが、葛藤がすべて書かれて、遺書として主人公に届いたと言う内容の物語です。
夏目漱石の作品「三四郎」その1
夏目漱石の作品はいろいろありますよね。 昔、読んだことがあるが、もう内容を忘れてしまった方も多いでしょうね。
さて、ここでは夏目漱石の代表作のひとつである「三四郎」の内容についてお話します。 「三四郎」の物語は題名の通り、三四郎が主人公です。 小川三四郎は、九州、熊本の高校を卒業した後、大学へ入学するために東京にやってきました。 九州の田舎から、初めて上京した彼にとっては、周囲のものすべてが驚きでした。
そんな三四郎の前に、同じ故郷の先輩である、野々宮が現れました。 そして、三四郎の友人である佐々木、「偉大なる暗闇」と呼ばれている広田先生、そして、女性の里見が現れました。
三四郎は、里見に恋心を持っていました。 里見は「無意識の偽善者」と言った謎を持つ女性でした。 彼女に迷わされたり、傷つけられたりする三四郎。 ですが、結果、里見は平凡な結婚をすることになります。 三四郎の胸には、彼女から聞いた言葉「ストレイシープ」が残ります。
広田先生も里見も単に、悪人、善人では区別できない複雑な性格をしています。 広田先生が「偉大なる暗闇」と呼ばれたのはまだまだ、発達する可能性がある未熟さが感じられるからでしょう。
そして、里見は三四郎を誘惑していましたが、計算高い女性ではありません。 うぶな三四郎に接した彼女は、反射的に、または本能的に彼を誘惑したのでしょう。 自分では気が付いてないようなので、まさに「無意識の偽善者」なのでしょう。
夏目漱石の作品「三四郎」続き
夏目漱石の「三四郎」と言う作品についてお話している続きです。
「ストレイシープ」や「お貰いをしない乞食」と自分のことを言った里美は、魂が植えている人間だったと思われます。 そんな彼女は三四郎が自分に恋をしていることを知っても、彼に愛情はありませんでした。 三四郎に対しての、憐れみはありましたが、愛とは違う感情だったのです。
里見が広田先生や野々宮の後を追っているように、三四郎もまた同じように後追いをしていました。 そんな三四郎に、里見は憐れみを感じていました。 三四郎が田舎者だからと言うこともあります。 それは都会人としての優越感なのでしょう。 また、三四郎が未熟な人間であったからこそ、憐れみを感じたのです。 三四郎に対して彼女は特別な思いがあり、それがいたわりと憐れみと言うものでした。 残念ながら、愛ではなかったと言うことです。
結局、主人公の三四郎は田舎から出てきて、彷徨を続けています。 最後のほうになっても、進路も決まっていません。 なんだか、主人公が一番、成長していないような気がしますね。 それに比べ、里見の方は、三四郎を迷わせてしまった、「自分の罪」の深さを自覚しています。 彼女は他の男性と結婚してしまいますが、結婚が決まった後に三四郎に言った言葉があります。 傷ついた三四郎に対して「われは我がとがを知る」、「我が罪は常に我が前にあり」と言いました。 夏目漱石が書いた本の中でも、聖書をもじったこの言葉は有名です。
夏目漱石の作品「三四郎」その3
夏目漱石が書いた「三四郎」についてお話しています 無意識の偽善者であった彼女は、自分の誘惑で三四郎を傷つけてしまったことを、後に自覚し、悔やんでいます。 それが罪であると認識し、結婚することが決まっても、その罪が常に心の中にあるということなのでしょうか。 「われのとが」と言った、この「罪」に対してはいろいろ意見があるようです。 他にも、とがは、自分への「罪」と言う説もあります。
彼女は、魂が飢えていて迷える子羊とも言われていました。 自分は意識していないのに、男性を誘い、惑わせてしまう。 言葉を変えれば女性として、それほど魅力があったのでしょう。 ですが、最後は平凡で安定した結婚を選んでしまいます。 周囲の予想とは反対に、世間的に見て立派な人を夫に選んだのです。
この結婚は、もちろん、自分の気持ちに逆らったものでした。 ですから、それが、自分への裏切りだったと言われています。 罪が自分の前にいつもあると言ったのは、自分の正直な気持ちを貫き通せなかったことです。 世間の目を考えて、自分の意に反した結婚相手を選んだことが罪なのでしょうね。
田舎ではエリートで通っていた三四郎が、大都会へ出たとたん、自分が小さいことを知りました。 また、進路も決まらずいつまでも中途半端な人間であることに気が付きます。 そんな自分に気が付いた時、彼女が迷える子羊なら、自分も同じく、迷える子羊であると初めてわかるのです。 彼女もうぶで未熟な三四郎に、自分と同じ匂いを感じたから、三四郎に対して特別な思いがあったのでしょうね。 夏目漱石の作品では、こうした人間の未熟さを描いた作品が多いですね。
コラム
夏目漱石の幼少時代その1
夏目漱石と言う人物は、みなさんご存知ですよね。 本を読んだことがなくても、お札になっていたことを知っていたり、本の題名は知っていたりと、どこかで必ず聞く名前です。 もちろん、愛読書が夏目漱石の本だと言う方も、もちろんいらっしゃるでしょうね。
私はどの本を読んだことがあるかと聞かれたら、その返事は明確に出来ません。 高校時代に、宿題で読んだり、授業で取り上げられたりして、作品に触れた記憶がうっすらとあるだけです。 恥ずかしながら、全部は読んでいないと思います。 有名なところで、我輩は猫である、や、坊ちゃんなど、そのあたりは読んだ方が多いかもしれませんね。 読んだ作品が少なくても、また、作品を読んだ経験がなくても、なぜか私たちは夏目漱石と言う人のことを知っています。 有名な本が数え切れないほど数多くあるわけではないのに、彼の名前は良く知られているのです。 これほど、知名度があり、多くの人に愛された作家、夏目漱石とは一体どんな人物だったのでしょうか?
では、まず、夏目漱石の幼少時代はどんな風だったのでしょうか。 漱石は1867年(慶応3年)に生まれました。 1月5日が彼の誕生日です。 江戸の町方名主であった夏目小兵衛直克を父、千枝を母に、五男として生まれました。 家は江戸の町、牛込から高田馬場あたりを納めていた名主でした。 仕事として公務を取り扱っていた父親は、民事訴訟において玄関先でそれを裁くほど、大きな権力を持っていたそうです。
夏目漱石の幼少時代その2
当然、漱石の家は豊かな暮らしをしていました。 当時の名主の息子ですから、何不自由なく暮らしていたことでしょうね。 そんな裕福な家庭であった夏目家も、それまではいろいろと大変だったようです。 漱石のおじいさんにあたる人、直基は道楽者で有名でした。 そんな直基が散財するところを、漱石の父、である直克が努力して、がんばった結果、傾いてしまった夏目家が立ち直ったのです。
また、夏目漱石の母である千枝は、後妻でした。 千枝は、新宿にある遊女屋の娘だったそうです。 すでに子どもが沢山いることや、千枝が高齢で漱石を出産したことなど、実は「望まれない子」として、漱石が生まれたと言われています。
夏目漱石の本名は意外と知らない方が多いようです。 ちょっと似合わないと思う方もいらっしゃるでしょうが、「金之助」が漱石の本名です。 この名前は、漱石の生まれた日である1月5日が、「庚申の日」だったことに影響されています。 この日、生まれた赤ちゃんは、大泥棒になる、と言う迷信が昔からありました。 その日に生まれてしまった漱石には、「厄除け」をする意味で「金」と言う言葉が使われました。 また、3歳ごろに煩った疱瘡によって、その傷痕が残り、大人になっても目立っていると言います。 この出来事は不運だと誰もが思いますよね。 ですが、この出来事は夏目漱石の才能を開花させることと、彼の知性を深めることに将来的に役立ったと言っている人もいるようですね。
夏目漱石の幼少時代その2
当然、漱石の家は豊かな暮らしをしていました。 当時の名主の息子ですから、何不自由なく暮らしていたことでしょうね。 そんな裕福な家庭であった夏目家も、それまではいろいろと大変だったようです。 漱石のおじいさんにあたる人、直基は道楽者で有名でした。 そんな直基が散財するところを、漱石の父、である直克が努力して、がんばった結果、傾いてしまった夏目家が立ち直ったのです。
また、夏目漱石の母である千枝は、後妻でした。 千枝は、新宿にある遊女屋の娘だったそうです。 すでに子どもが沢山いることや、千枝が高齢で漱石を出産したことなど、実は「望まれない子」として、漱石が生まれたと言われています。
夏目漱石の本名は意外と知らない方が多いようです。 ちょっと似合わないと思う方もいらっしゃるでしょうが、「金之助」が漱石の本名です。 この名前は、漱石の生まれた日である1月5日が、「庚申の日」だったことに影響されています。 この日、生まれた赤ちゃんは、大泥棒になる、と言う迷信が昔からありました。 その日に生まれてしまった漱石には、「厄除け」をする意味で「金」と言う言葉が使われました。 また、3歳ごろに煩った疱瘡によって、その傷痕が残り、大人になっても目立っていると言います。 この出来事は不運だと誰もが思いますよね。 ですが、この出来事は夏目漱石の才能を開花させることと、彼の知性を深めることに将来的に役立ったと言っている人もいるようですね。
夏目漱石の学生時代その1
幼少のころの漱石にはいろいろなことがありました。 夏目漱石が生まれた時代、当時は明治維新が起こった後の混乱した時代であり、その中、漱石は里子に出されました。 また、次には養子に出されます。 この時に夏目の姓が変わりました。 そして、また実家に戻り、夏目の姓に戻ると言う、遍歴がありました。 裕福な家に生まれたにも関わらず、可愛そうな幼少時代だったのですね。 こうして里子に出されたり養子に出されたりしたことで、親の愛が足りないまま、漱石が育ったことは手に取るようにわかりますよね。 そんな気の毒な幼少時代を送った漱石は、神経質な性格になったと言う説があります。 そして、夏目漱石は、この幼少時代の苦労から、度々、かんしゃくを起こす、かんしゃく持ちになったと言う説もあります。
そんな夏目漱石ですが、学生時代はどのようにすごしたのでしょうか? 漱石は、最初の市ヶ谷学校から錦華小学校へ転校します。 その転校の理由は東京府第一中学へ入学するためだったと言う説があります。 そして、12歳の漱石は、東京府第一中学正則科に入学します。 現在の日比谷高校です。 ですが、大学予備門受験に必要な英語の授業がない正則科に入学したと言うことと、漢学や文学を志すと言う理由で、この学校を2年で中退しました。 中退した漱石は、長兄の大助に怒られないよう、お弁当を持参し、日々、一中に通っているふりをしていたそうです。 長男である大助には彼なりの思いがあり、漱石に期待していたのですが残念なことですね。
夏目漱石の学生時代その2
夏目漱石は、その後、漢学私塾二松学舎に入学しました。 この学校で、勉強したことは、漱石が後に小説の中で表現されています。 それは、儒教的倫理観や、江戸的な感性であり、また東洋的美意識なのです。 ですが、兄の大助に反対され、この学校も数ヶ月で中退してしまいます。 漱石の兄、大助は以前、病気で大学南校を中退していました。 そんな悔しい思いを、末弟である、漱石に託し、漱石が大学出で、出世することを願っていたのです。 そうして、漱石が出世して偉くなることで、夏目家が再興すると信じていたのです。
その2年後である、1883年(明治16年)、大学予備門を受験するため、なんとか英語を学ばなければならないので、漱石は神田駿河台にある英学塾成立学舎に入学しました。 その甲斐あって、翌年には大学予備門予科に入学します。 なんと、受験当日、隣の友人に、回答を教えてもらったと言うから驚きですよね。 その友人はと言うと不合格だったそうです。 教えてあげたほうが不合格で、漱石はみごと合格したなんて、人生とは不思議なものですよね。
この大学予備門時代、一緒に下宿していた仲間には、後に満鉄総裁になった中村是公氏がいたそうです。 最初は少人数の下宿で自炊生活をしていましたが、その後は、10人と共同生活を送っていたと言うことです。 神経質と言われていた夏目漱石ですので、人とのコミュニケーションを嫌っているイメージがありますよね。 ですが、そんなタイプではないことが、学生時代の共同生活から伺えますよね。
夏目漱石の学生時代その3
正岡子規はたくさんあるペンネームの中のひとつとして、漱石と名乗っていましたが、後に夏目金之助がこの漱石と言う号をもらうわけです。 夏目金之助と名乗っていましたが、この時から、夏目漱石という名前を使うようになりました。
夏目漱石は、房総半島を旅した際の模様を、漢文で書いた「木屑録(ぼくせつろく)」と言う紀行を作りました。 その批評を正岡子規に求め、このようなことで、更に2人の友情は深まって行きました。 正岡子規は、漱石のその優れた才能に感銘していたと言います。 また、夏目漱石も正岡子規には、深く影響を受けたと言われていますから、この2人の出会いは、今、考えてみればとても貴重ですよね。 友情が深まり、お互いに良い影響を与えたのですから、素晴らしい出会いだったことは間違いありません。 彼らの交流ですが、1902年に正岡子規が亡くなるまで続きました。 この年は、ちょうど漱石がイギリスへ留学中でした。
1890年、夏目漱石は帝国大学英文科に入学しました。 この近年には身内の不幸が続きます。 87年長兄の大助が亡くなりました。 同年6月に次兄の栄之助も亡くなります。 1891年に、三兄である和三郎の妻と死別します。 漱石はこの和三郎の妻、登世に実は恋心を抱いていたと言う説がありました。 夏目漱石は、彼女の死によって、深い傷が心に出来ました。 彼女への気持ちを、句に込め、何十首も詠んでいます。 1890年に東京大学英文科に入学、翌年、特待生になり授業料を免除されるなどの特典を受けました。 また、学生時代に鴨長明の「方丈記」を英訳しました。 学生時代に、このような難しい古典を英訳したことで有名です。
夏目漱石の学生時代その4
波乱に満ちた幼少時代を過ごした夏目漱石。 子供のころは裕福な家庭に生まれたものの、里子に出されるなど、親の愛に恵まれない子供時代を過ごしたようです。 そんな切ない子供時代を経た漱石ですが、学生時代になると、めきめきと才能が開花し、それに磨きをかけていました。
特に学生時代に出会った俳人は、漱石に多くの刺激を与えたと言われています。 あの有名な正岡子規と出会ったのです。 漱石は彼から多くの刺激を受けて才能を磨いていました。 では、学校を卒業した後、夏目漱石はどのように過ごしたのでしょうか?
1892年、当時、兵役の義務は誰にでもあったので、漱石は兵役を逃れるために、分家しました。 北海道に籍を移すことで兵役を逃れることが出来たのです。 こうして、戦争に行かずに済んだ漱石は、同年5月、当時は東京専門学校と呼ばれていた大学、今の早稲田大学で、講師として働きます。
当時、漱石と正岡子規は、早稲田周辺を散歩することが多くあったそうです。 子規は自らの随筆である「墨汁一滴」に漱石とのことを書き記しています。
また、松山に帰省しようとする正岡子規と一緒に、漱石は関西方面へ出かけました。 これは漱石にとっては初めての関西となりました。 京都や、堺、そして、岡山、松山を訪れました。 夏目漱石と正岡子規、沢山の時間を共有してお互いに切磋琢磨していたようですね。 また、夏目漱石が、高浜清、後の高浜虚子を知ったのも、このころだっと言うことです。